魔球から変化球へ 明治・大正・昭和野球史前編
■そもそもの始まり
2009年放送のテレビアニメ『大正野球娘。』の監督をすることになった時、女子チーム『桜花会』のエース小笠原晶子に変化球を投げさせたいと考えたのがそもそもの始まりだった。
桜花会の目標は「打倒男子!」なので当時の男子が驚くような変化球を投げさせないとまずかろうと思ったのだ。
そこで大正時代にはどんな変化球があったのかを調べることにした。
まずは青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)へ行き全文検索に「変化球」と入れてみた。
青空文庫(あおぞらぶんこ)は、著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館で第二次世界大戦直後くらいまでの日本文学などを無料で読める大変ありがたいサイトである。
さて「変化球」の検索結果だが、なんと一個もヒットしなかったのである。
試しに12年後(作業は2008年から行っていた)の今、もう一度「変化球」を検索したがやはり一件もヒットしなかった。
明治・大正・昭和の文学が大量に存在する青空文庫で一件もだよ?
さて、これはどういう事なのだろうと困惑しながら、試しに「カーブ」と入れてみた。
カーブは世界最初の変化球でキャンディ・カミングスがクラムシェルの貝殻を空中に投げる子供の遊びを参考に1867年に初めて投げたと言われている。
Wikipediaには異説が載っていて、
カーブの発案者を、フレッド・ゴールドスミスとする他説もある。ヘンリー・チャドウィックら一部の野球歴史家の著作によると、カーブが投げられたという最も古い公式な記録は、1870年8月16日のブルックリンでの野球の試合であるという。
とあり、まあ大雑把に結論すると1870年前後にはカーブが投げられていたというわけだ。
さて青空文庫での「カーブ」の検索結果だが、
1896(明治29)年7月19日号~27日号の日本新聞社発行の「日本」に掲載された正岡子規の『ベースボール』の中に次の一文があった。
投者は打者に向って球を投ずるを常務と為す。その正投の方、外曲、内曲、墜落等種々ありけだし打者の眼を欺き悪球を打たしめんとするにあり。
右投手右バッターだとするとアウトカーブが外に曲がってゆくカーブで、インカーブは現在のシュートのことだろう。
おお、シュートは打ちにくそうで良いではないか、などと考えつつ悪戯心で「魔球」を検索してみたのが本稿を書くことになる長い旅の始まりだった。
■「魔球」の検索で1件ヒット
そのヒットした一件とは、
押川春浪 著『海島冐險奇譚 海底軍艦(1900年)』である。
『海底軍艦』はのちに映画化され(1963年(昭和38年))私は中学の時にTVで観て感激した覚えがあるので、このタイトルがヒットした時は興奮したな。
下の予告編は米国版
だって巨大な戦艦が海底人から人類を守るために、地に潜り海底を進み空まで飛んで戦うんだぜ、そら興奮するわ。
あ、魔球の話だったな。時を戻そう。
さて『海島冐險奇譚 海底軍艦(1900年)』にはこうあった。
(前略) 何處で練習したものか、鐵の樣な腕から九種の魔球を捻り出す (後略)
なんと「魔球」に「カーブ」のルビがうってあるではないか。
他にも九種類のカーブとは何ぞやというツッコミがあるかもしれないが、これは面白いなと当時の私は思った。
自分にとっての魔球とは漫画の『黒い秘密兵器(1963年(昭和38年))』の黒い秘球とか『巨人の(1966年~)』の消える魔球がそれにあたるからだ。
それがカーブが魔球とはなんと大げさなのだろうか。まあ、初めて目の当りにしたらそれはしょうがないか。
そこで私は「魔球」という単語がいつ使用されたのかを探ることにした。
■最初の「魔球」を発見。
最初の魔球の例はWikipediaであっさりと見つかった。
第一高等学校(一高)の教諭であった物理学者の山口鋭之助は以下の手記を残している(以下、旧字体・仮名遣い・句読点等は修正)。
明治二十七八年頃と記憶するが、当時わが球界にナンバー・ワンを誇っていた一高チームが、横浜の外人チームに試合を申込んだ。そして私も誘われるままに横浜までそれを見に行った。
何にしろ野球の揺籃期であったから、この遠征は全く画期的のもので、試合は素晴らしい応援裡に開始された。所がわが一高軍はどうしたことか、守備には大した失策もでなかったが、打撃は全く振わず、出る打者も出る打者もバッタバッタと打ちとられて三振に継ぐ三振といった醜態を演じてしまった。
選手はもちろん応援の人達もこれには全く言葉なく、唖然として一外人投手の妙技を見守るばかりであったが、この時意気消沈して帰る一団の中から、期せずして「神技だ、魔球だ」という言葉が出た。
「魔球」という言葉はこの時初めて生れたのであるが、要するにそれは今日の曲球を指して言ったものである。
実際に一高チームが初めて横浜の在留外国人のスポーツ同好会であるYC&ACこと横浜クリケット・アンド・アスレティック・クラブ(Yokohama Cricket and Athletic Club)と対戦したのは1896年(明治29年)5月23日のことであり、「明治二十七八年頃」(1894-1895年頃)というのは山口鋭之助の記憶違いと思われる。
一高チームはドロップを習得した青井鉞男を投手に据え、在留アメリカ人のチームを相手に5月23日、6月5日、6月27日の3回の試合に連勝し、治外法権撤廃の機運の高まる中で「日本人のチームが初めて米人のチームを破った」というニュースと共に全国での野球熱が高まった。
他にも近い時期での「魔球」という用語を使った書籍があった。
私が時代考証をする時によく使うサイトは「青空文庫」の他にもう一つある。
『国会図書館デジタルコレクション』https://dl.ndl.go.jp/
こちらは全文検索は出来ないが、書籍のタイトルと目次は検索が可能だ。
さらには書籍内部は画像として閲覧できるのが素晴らしい。
ここで「野球」を検索し古い順に並べて読んでみるわけだ。
「魔球」はすぐに見つかった。
『野球 中馬庚 著』(出版年明30.7(1897年))
P.の投球に魔球なるものあり、(後略)
中馬庚は「ベースボール」を「野球」と訳したことで知られている人物だ。
さて、これで分かったのが1896年(明治29年)頃に現在の変化球が魔球と呼ばれ、後に曲球と呼ばれるようになったということだ。
「曲球」という単語は耳慣れないが、私が大正野球娘。の資料をあさっていた時に見つけた大正末期の新聞記事に「直球」と「曲球」とあったので大正期には野球用語で使用されていたようである。
他にもベーブ・ルース 著[他] (平原社, 1938)『野球上達法』に 曲球の投げ方という項目がある。
また戦争をまたいで、
少年. 5(8) 国立国会図書館限定 雑誌 (光文社, 1950-08)の目次に
世界一の曲球王事実小說 まぼろし投手 / 白木茂 ; いくのひさし
とあり、「曲球」は1950年くらいまでは野球用語としては生き残っていたようである。
■さて、ここまで「変化球」の「変」すら出てきていないが、「魔球」は「曲球」を経て、いつ「変化球」になったのだろうか?
とはいえ2009年の段階では監督業が多忙を極めていたので「変化球」の探索はここまでが限界だった。
そこで大正野球娘。では「魔球」と「曲球」どちらを投げるのか決断を迫られた。
放送は待ってくれないからね。
そこで決断の決定的な後押しをしてくれたのが次の書籍である。
昭和5年発行の スポーツブック編集部 編『少年野球術』 (金星堂, 1930)
その目次には堂々とこう書いてあった。
『魔球の投げ方』
明治時代に「魔球」という言葉が生まれ昭和に入ってもこうして堂々と残っているなら『大正野球娘。』で魔球を投げても何の問題もないだろう。
それに、
「晶子さん。あなたには曲球を投げてもらいたいの」よりは、
「晶子さん。あなたには魔球を投げてもらいたいの」の方がインパクトがあるものな。
うむ、エンターテインメントにインパクトは大切だ。
というわけで『大正野球娘。』の小笠原晶子は「魔球」を投げることになったのだ。
ちなみに晶子の球種は「シンカー」と「ナックル」「(本人なりに)速い球」「遅い球」の四種類である。
「ナックル」は当時ナックル姫と呼ばれた吉田えりさんがいて、便乗させてもらった。
サイドから投げているのも都合が良かった。
晶子のフォームのモデルは2020年シーズンから東京ヤクルトスワローズの第22代一軍監督を務める高津臣吾氏である。
彼の現役時代の外角低めへのボールの出し入れには惚れ惚れとしたものだ。
さて問題なのは魔球や曲球に代わる用語としての「変化球」がいつ登場したのかということだ。
■用語としての変化球の登場。
『大正野球娘。』の放送が終わって10年が過ぎ、ふと戯れに国立国会図書館デジタルライブラリーで「変化球」を検索してみた。
2009年当時は全くヒットしなかったのだが、古いほうの書籍で注目すべき二点が見つかった。
小説新潮. 12(10) 国立国会図書館限定 雑誌 (新潮社, 1958-07)
目次:プロ野球を叱る(鼎談) 不手際な審判、変化球の弊害、選手の結婚、監督論、野球協定等 黄金時代と云われるプロ野球界の諸問題を鋭く衝く! / 大井広介 ; 吉田要 ; 浜崎真二 。
ここにはすでに「変化球の弊害」という今でもよく耳にする言葉があり。
もう一点は、
野球少年. 12(8) 国立国会図書館限定 雑誌 (芳文社, 1958-08)
目次:変化球の投げ方 / 笹山しげる
少年野球の本でとうとう「変化球の投げ方」が登場した。
つまり1958年の7月には「変化球」という言葉が一般的になっていたようなのだ。
■ここまでの予想
野球用語としての「変化球」が誕生したのは戦後ではないか。
多様化する動くボールを総称するために「魔球」や「曲球」に代わる言葉として誕生したのだろう。
もしかすると英語の「Moving ball(こういう用語があるのかは不明だが)」を訳した結果かもしれない。
1955年3月のベースボール・マガジン. 第1次.には
目次:魔球だんぎ(第八回)野球寄席 / 別所毅彦 ; 林義一 ; 金田正一 ; 野村武史 ; 小坂秀二
とまだ「魔球」が残っている。(ただし現代でも名投手の変化球を「魔球」と呼ぶことがあるので注意が必要だ)
おそらく「変化球」という言葉は1950年代中頃に誕生したのではないかと考えている。
とりあえずここまで絞り込めた。あとは時間が空いた時に国会図書館で調べてみることにする。
経過は逐一報告するのでどうかお待ちいただきたい。
つづく。
大正野球娘。時代における陸上競技(短距離走)の現代との違いについて
大正時代の女学生言葉について
やまやまやま